実現可能性のない要求は出しても意味がないのか?

 毎度のことながら、「どうせ実現しない要求を掲げても仕方がない」という声が出される。今春闘の職場論議の中でも、やっぱり出されているようだ。一つ言っておきたい。“実現可能性”を要求の前提条件とすれば、要求できる内容なんてほとんどない。そういってしまえば身もふたもないのだが、要求は実現可能かどうかで測るものではなく、労働者の暮らしに本当に切実に必要なことなのかどうかで測るものだ。そして、それを要求するからこそ、不十分ではあれ現状の到達点があるのだということを知るべきだろう。もし、“どうせ実現しない”と言って何も要求してこなかったら、今でも不十分な年休の取得などは、もっと取得できない水準に、あるいは“うちの会社には年休なんてないよ”なんて水準になっていたかもしれない。実現しなくても、要求することでその問題について経営と渡り合い、一歩でも半歩でも前進させようと要求を掲げ続けてきたことが今の到達点を作ってきた原動力であり、だからこそこれからも重要なのである。

 勘違いされないよう、一つ付記しておく。前記で「“実現可能性”を要求の前提条件とすれば、要求できる内容なんてほとんどない」と書いたのは、経営資源的に不可能という意味ではない。だって、経営はずっと黒字だし、その気になれば剰余をゼロにしてでも賃上げや年休取得などの原資に充てることはできるのだ。要は経営の考え方ひとつでどうにでもなるということだ。おかやまコープの場合は、NET3%を至上命題としている関係上、それを達成するまでは、どんな要求をしても実現できないというのが理事会のスタンスだということだ。

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実現可能性のない要求は出しても意味がないのか? への3件のフィードバック

  1. 暴言居士 のコメント:

    「どうせ実現しない要求を掲げても仕方がない」といってるヤツは一度でも団交で理事会に向かって要求したことがあるのか。

    • nishizaki のコメント:

       まぁまぁ、そりゃきっとしたことないでしょう。どうも、変に斜に構えてすべてわかったような顔をしている人が多いのは事実ですが、それでも、「どうせ実現しない…」ということであっても、まだ意見を出すだけ立派ですよ。
       その意見に対する批判は当然しますけど、意見を出したこと自体は認めてあげましょうよ。

  2. ポテト のコメント:

    ドウセ言っても仕方がない、ドウセ言っても変わらない、ドウセ言っても聞いてくれない、ドウセ自分なんか大切にされていない、ドウセという言葉を頭につけて人生あきらめている人が職場にたくさんいるとするとここの企業組織も厳しいね。
    どうせ「ドウセ」をつけるならどうせ一度の人生よできる限りやるだけやってみようとなると状況は少しずつ変わっていくんだがねえ。あなたはもしかして諦め派?

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