日別アーカイブ: 2011年5月31日

裁判官も所詮は“御用”裁判官なのか…

 最高裁で、君が代を歌う際に起立しなかったとして定年後の再雇用を拒否されたのは不当だとする元教員の訴えを退ける判決が出された。再雇用拒否の理由が他の理由ならともかく、まさにこれは憲法に保障された思想信条の自由を踏みにじる判決だと思う。
 今、大阪ではこれを条例に制定し、起立・斉唱しなかったもの(教員)に対し、懲戒を含む罰則を課そうとしている。公権力がここまで教育に踏み込む姿は、まさに戦前のそれを思い起こさせる。

 最高裁の判決は、起立・斉唱の命令は思想信条の自由に“少しだけ”制約を加えるものの、その業務命令はその場の状況(式典など)の秩序の確保や円滑な進行を図るための必要性や合理性があり、憲法に違反しないという。
…う〜ん、不思議だ。式典の秩序や円滑な進行のために、憲法に保障された自由の制約はやむを得ない、あるいは許容範囲だというわけだ。ならば、その式典そのものがあのナチスの式典だったり、戦時中に学校の校庭などで天皇の写真(いわゆる御真影というやつ)に向かって敬礼をさせられていた時も、さらに北朝鮮の統制のとれたあの式典であったとしても、それ以外でも例えどんなに自分の意に反していた式典だったとしても、それを円滑に進めるための指示命令ならば、それに背くことは許されないということなのだろうか。
 あまりに話が飛びすぎだという人もいるかもしれない。しかし、この問題の根本はそういうことではないか。起立・斉唱することが愛国心の表れだなどと凝り固まった発想しかできないからこんな判決しか生まれないのだ。君が代を歌わなくたって愛国心いっぱいの人はたくさんいるはずだし、本来の愛国心とは、本当にこの国に生まれ育ってよかったと思えるような国を作るということではないか。憲法に保障された自由を少しばかり制約する業務命令だが、それでもその命令に従うべきだなどとのたまう国に対して、どうして愛国心など生まれようか。そのことを裁判官はわかっていないんだろうね。
 大阪の維新の会が出している条例案…、もうコメントすることすら恥ずかしい。公権力の教育への介入によってあの戦前の思想教育、マインドコントロールは始まった。だからこそ、戦後、憲法や教育基本法によって公権力の教育への介入が戒められたのである。今また大阪は、あの時代を繰り返そうとしている。
 ああいう、“自分の言うことを聞く”権力社会をつくるというか、そういう社会で君臨することがきっと気持ちがいいんだろうね、橋下知事は。
 私は立ちませんよ。歌いもしません。それが息子の入学式や卒業式であっても。それが私の愛国心だから。

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